思いださなくてはいけないのだろう。思い出が僕らを一種の動物であることから救うのだ。過去から未来に向けて飴のように延びた時間という青ざめた思想(それが現代人には最大の妄想であると私には思える)から逃れる唯一の本当に有効なやり方のように思える。成功の機はあるのだ。この世は無常とは決して仏説というようなものではあるまい。それはいつ如何なる時代でも人間のおかれる一種の動物的状態である。現代人は鎌倉時代のどこかの生女房ほどにも無常ということが分かっていない。常なるものを見失ったからである。
これは小林秀雄の「無常ということ」の中の一説である。正確であるかは分からないが、思い出すままに記している、その辺に本が見つからなかったから。
彼女が私に言っていたことはこの「思い出」作りということなのだと今は思うことができる。当時は私にはそれが彼女の特有の曖昧さではないかと勘違いしていた。しかし付き合っていた頃から15年以上過ぎた今あらためて思い返してみると、成る程と思えてくるものがある。二人で織りなす思い出とは、かけがえのないもので、その中に少しでも作為的なところなぞありはしない、もし少しでもそれが見つかれば殆ど激しい顔をして抗議してきたものだ。
そこにこそ彼女の真実があったし、汲み取るべき本心があったと思う。スキー場で見せたあの激しい彼女の訴えかけてくる真剣な動作は、いつまでも、15年以上経った今でも鮮やかに思い出すことができる。
この文章は、初めてiPad pro11で作成したものです。
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