「世の中は不正義に満ちている。不正義がはびこり、もはや正義について論じることは時代遅れだと言う人がいるかも知れない。」これは、最近買った池本幸生の「不正義の克服」という本の書き出しだが、著者は、インドの作家アマルティア・センの「正義のアイデア」の翻訳者である。訳者は、最近の日本で起きた米騒動にも触れている。誰しもこの「不正義」については一家言持っているかも知れない。
仮に警察が正義を放棄したらどうなるだろうか?前回の「六四」のところでは、中国という国は「正義」を放棄して久しいし、その弊害とでもいうべきものが世界中で起きている。タイではミャンマーで起きた大地震の余波で中華製ビルディングが倒壊したし(これは実は正義というよりももの作りの品質の問題であるが)、ヨーロッパでも同様の弊害があることを毎日のように耳に、目にするようになっている。ベトナムでは、日本のバイクは高いからと敬遠していたら、すぐ壊れてしまい修理するなら日本製の方がマシだと人々も考えを変えるようになっている。あのホー・チ・ミンでのバイクの洪水を見たことがある人ならイメージ出来ると思うが、とてもじゃ無いが公道を彼らと同じに走れないと思ってしまう。アメリカではどうか?最近、太陽光パネルのどこかに「キル・スイッチ」という通信機器が発見され、もし大停電とかインフラが一時的なトラブルが生じた際にこのキル・スイッチという即時停止できる機器がリモートで作動してしまうだろう。既にこれだけ日本にも都道府県知事の許可の下、不必要なまでに景観を損ねるパネルを貼りめぐらされている光景を見れば、既に同様のスイッチがあってもおかしくないし、それを異常だと思わない「不正義」が日本を支配してしまっていると思うべきではないだろうか?これは品質管理の問題ではない。
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「侵略者が何の罪もない人たちを虐殺していることに抗議して、世界中でデモに参加する人たちがいる。そんなことをしても無駄だと言うのは侵略者の行為を容認しているのと同じである。それを容認すれば同じようなことが別のところでも起こる。遠く離れた国からであっても抗議の声を上げることは力になる。その声は侵略者たちへの圧力となり、侵略を企んでいる他の独裁者たちを思いとどまらせる力となり、侵略された国の人たちには精神的な支援となる。」と書いている。このことは、ベトナム戦争でアメリカの圧倒的な軍事力の前には無力に思えた北ベトナム政府軍であるが、やがて人々の反戦運動により米軍がサイゴンから引き上げざるを得ない状況を作り上げていき、ホー・チ・ミン率いるベトナム(政府軍と解放民族戦線)の勝利に結びついた歴史を見ても我々は納得するだろう。果たして正義とは何だろう。トランプは自分が誰より正義の統率者を持って任じていることだろう。しかしプーチンも御することはできないし、侵略された側のジェレンスキーの心も理解できてはいないのだろう。正義とは何だろう?鹿児島県警の所管で起きた事柄について、警察庁も県警本部長も容易に片付いたと認識しているのだろう。警視庁はどうだろう?神奈川県警はどうだろうか?殺人事件やレイプ事件でも、被害者サイドに立つよりも被疑者サイドに立って事を運ぶ弁護士のような扱いをしていないだろうか?もはや正義なんて時代遅れのことなんだろうか?
最近司法界で、被疑者の人権が強くなっている。これまで例えば警察や検察官が意地でも被疑者や被告人を有罪に持っていくのが常套であったが、弱くなっているのか、明らかに有罪であろうというような事件でも不起訴や、捜査が中断してしまっている。あわよくば起訴されたら、それでも裁判で有罪を勝ち取ればいいと被害者は期待するだろうが、外国人が被疑者であればもう期待できないと思うべき世の中になってしまった。かつてのドラマが99.9%が有罪というのは夢のまた夢ということである。
ところで、昨日はロサンゼルス・ドジャーズとカージナルス戦で起きた出来事は、「適正な審判」という問題だ。大谷が三度も、ボールをストライク判定に取られれば、誰しも選手本人の記録にも影響するし、もちろんチーム全体の勝敗にも影響が出る。これについてはMLBも問題視し複数の審判が数ヶ月の出場停止の処分になった。それが今日はムーキー・ベッツがヒットで一塁を踏む足が速いか、それとも一塁手の足が速いかが争われた。監督がこれについては当然の如く観客もベッツ本人も当然セーフとなるところが審判通りの判定でアウト。もちろん
チャレンジを監督も要求したが判定は覆らなかった。この件も再びMLBが問題視している。審判の判定というものは「信頼の原則」がある。仮に賭け事の対象であったなら、審判の判定で異なってくる。そのことを息子に言えば、「それより審判の処遇に問題があるんじゃね?」という言葉が返ってきた。彼は時々想定外の回答をする。処遇が適正だったなら、誤審はないというのだ。競馬もそうだが、重要な競技では、現代は写真判定で決まると言ってもいい。それでも真偽に首を傾げることも事実あるし、審判の判定に納得いかない選手も多い。逆にアウトをセーフにされたり選手に有利にされた事例もあるはずだ。小学校時代校庭でソフトボールをしていた頃流行った言葉に「審判は公平に」というのがあった。私の父親の名前が孝平だからそれを絡めていう者もいて恥ずかしい思いをしたが、確かに公平な世の中であって欲しいと切に願う。
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