本日はタイトルに挙げた件を取り上げたいと思います。雑誌「マルコポーロ」は、文藝春秋社が1991年から4年間ほど発行した雑誌である。写真の2月号は、1995年のちょうど阪神淡路大震災の発生した1月頃に発行されたもので、ナチスのホロコーストは存在しなかったかのような記事を特集している。そのことによりシオニストやユダヤ人の団体から強い抗議を受けて廃刊に追い込まれてしまった。
しかし私がここに取り上げたのは、そのことではない。そのことも世界的にも大きな問題を孕んでいるのだけど、もっと重大な記事が他にあったことを忘れてはならない。それは、これも特集として記事を組んだもので、右下の写真のごとく前年6月に発生し、6人が死亡、約600人が負傷した「松本サリン事件」のことを取り上げていているからだ。この事件は、長野地方裁判所松本支部田町宿舎などをターゲットにしているが、翌年東京の地下鉄サリン事件、さらに国松警察庁長官殺人未遂事件へと続く物々しい時代を予兆していたのだった。米化学兵器研究所副所長オルソン氏が来日して雑誌ではインタビューを試みている。その中で氏は、松本サリン事件では妻共々被害者である河野義行氏が真っ先に警察に疑われて2年に亘り取り調べを受けているが、その割にこれはあくまで予兆であってこの地域が実験として使われていたのであり、何故警察はこれに続き今後都市部で発生した場合などの対応を怠っているのだろうかと疑問を呈している。警察とすれば、この雑誌が廃刊に追い込まれて、飛んでもないことを掲載したからだと言いたいのかも知れない。だが、周知のように後に東京都心を未曾有の大混乱におとしめた事件を考えるとき、この記事の持つ意味を絶対忘れてはならないように思うのだ。

 |
写真は、雑誌マルコポーロ2月号の一部内容である。 |
東京で発生したオウム真理教による地下鉄サリン事件は、1995年3月20日の地下鉄が通勤客で混雑する早朝で起きた。丸の内線で2組、日比谷線で2組、そして千代田線で1組の計5グループがそれぞれサリンを袋に入れて新聞紙に包み持ち、霞ヶ関に向かう人をターゲットにして事件を敢行(サリンの入った包みをこうもり傘の先で突き刺す等して)した。霞ヶ関は、警視庁や国の行政機関が集まる場所であり、官公庁が多いところであるので狙ったのだ。死者は14名、負傷者は6300名となった。
同時多発テロの状況は、それぞれ
⚪︎丸の内線(荻窪行き)では、池袋駅で乗車した広瀬健一が御茶ノ水駅で実行。
⚪︎丸の内線(池袋行き)では、新宿駅で乗車した横山真人が四ツ谷駅で実行。
⚪︎千代田線(代々木上原行き)では、千駄木駅で乗車した林郁夫が新御茶ノ水駅で実行。
⚪︎日比谷線(東武動物園前行き)では、中目黒駅から乗車した豊田亨が恵比寿駅で実行。
⚪︎日比谷線(中目黒行き)では、上野駅で乗車した林泰男が秋葉原駅で実行したことになっている。よって発生当初から110番が相次ぎ、対応する警視庁や消防庁も最初それが化学防護服を着用すべき事案であることを知らないで警察官等を突入させることになってしまった。そのような緊迫した模様は、下記のYouTubeサイトで伝わってくる。
地下鉄サリン事件当日無銭記録 ※いくつかの警視庁通信指令室の無線記録があるが、元々YouTubeチャンネル「日曜アカデミー」が最初に出していたように思うが、解りやすく図示できているこのチャンネルのリンクを貼っておきます。
この日我が家の母をはじめ親類縁者が東京都で結婚・披露宴があり詰めかけていたが、地上でタクシーに乗車したため事無きを得ている。当然地上でもパトカーや消防車、救急車が現場急行しており、地下鉄出入口でも規制線が張られていたはずで、パニックに陥っていた状況であると推察する。
また救急車の数も足りないくらい次々に運ばれる救急患者については、日比谷線築地駅付近の中央区明石町に所在する「聖路加国際病院」(当時日野原院長)が当初から患者受け入れを表明しており、多数の患者が運び込まれることになった。
「当時の日本の警察の関心は、誰がサリンをつくって松本で散布したかであった。」(杜 祖健著「サリン事件」)警察は第一通報者である河野氏をまず疑った。警察が彼の自宅から化学薬品No IIを押収した際に「ナンバー2」と記載して驚いたという。「それは二酸化窒素ですよ」と河野氏が指摘したエピソードが残されている。松本サリン事件では河野氏を犯人と誤認し後に損害賠償することになったのだが、被害を受けた薬剤の成分をサリンと警察が断定したのは、「ガスクロマトグラフィ成分検査」だった。今でもこの機械は覚醒剤の成分分析に利用されている。警察庁長官に対する殺人未遂事件もご承知のように警視庁(公安部)はオウムの仕業と最初から思い込み信じて疑わなかった。そういう先入観が、誤認が誤認を呼び二進も三進も行かない状態になっていくのだった。ただ地下鉄サリン事件だけは警視庁刑事部が総力を上げて捜査した結果、上九一色村(長野でキャンプした時に村を通過したことがあった)の第七サティアンで製造されていることを突き止めていく。そして製造したのは、まず土谷正実で村井秀夫からの指示であった。松本で成功した彼らは製造工程を簡略化して製造するようになっていた。地下鉄を攻撃現場として決まったことにより村井は次に遠藤誠一に命じて第4過程から製造を行った。これについては、既に大量に「メチルホスホン酸ジフルオリド」という化合物が保存出来ていたからだった。そこに中川智正が加わる。
一連のオウムによる日々積み重なった重大性が世間や警察に認知されるまでには、長野県をはじめ各地で地元住民の絶え間ざる苦労と活動があったことは付け加えなくてはいけないだろう。3月16日の「サンデー」でも地元住民の苦労が紹介されていた。家族からも「止めなさい」と言われても徹底してオウムの悪事をしつこく追及している人がいた。そういった涙ぐましい努力があってこそ重い腰の警察や及び腰の自治体が動いたのだった。全国からオウム信者に子供を誘拐同然で連れて行かれた家族でもどうすることも出来なかった時代だった。
参考文献、出典等;ユキペディアの関連記事
杜 祖健著「サリン事件」(東京化学同人 社発行)