2022年8月12日金曜日

GM事件と日航ジャンボ機墜落事故

    今日8月12日は群馬県の暑い夏を象徴する出来事として例年TVで報道され思い出されるが、日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落した事故を弔うため遺族を中心に有志の人々が山頂に向けて慰霊登山を行っている。

 JAL123便は乗員乗客524人を乗せ定刻より4分遅れの、1985年8月12日午後6時04分羽田空港を離陸し、伊丹空港に向かっていた。この便には当時ハウス食品(株)の浦上郁夫社長が搭乗していた。

 あの頃世の中で数々の凶悪事件が起きており、複数の府県にまたがるような重要事件(殺人、放火、誘拐、強盗事件など)は、特に「警察庁広域重要指定事件」とされ、毎年のように新たな凶悪事件が発生しては、また新たな指定事件として塗り替えられていくという風な感じであった。よって「警察庁広域重要指定第◯◯◯号事件と呼称されている。その中でも

113号事件…1982年名古屋で警察官が拳銃を奪われ、男女計8名が殺害された事件であるが、捕まったのは消防士勝田清孝で、およそ10年間に22件の殺害を自供したが、14件は立件できずに終わっている。

114号事件…1984年3月江崎グリコ社長の誘拐以降発生した兵庫、大阪、京都、滋賀を跨いだ通称「グリコ・森永脅迫事件」で、今でも犯人グループとの間に企業と裏取引があったのではないかと言われていたり、企業の株価低迷を利用してデリバティブ取引で稼いだとも言われたりするが、最近も映画化、ドラマ化もされており、特に脅迫テープに使われた声が犯人の身近にいた幼い子供2名と女性で心の傷を一生背負うことになったとされ、また他の広域事件と違い10名近い犯人達が最初は結束が固かったが、徐々に仲間割れをしたり、他の強盗事件を起こす中で仲間が自殺したり、未解決にはなったが必ずしも事件そのものは成功したと言えなかった。(塩田武士著「罪の声」、森下香枝「真犯人」など)

115号事件…1984年9月元京都府警広田雅晴巡査部長が勤務中の派出所の巡査長を公園に誘き寄せ殺害の上拳銃を奪い、大阪の消費者金融で強盗殺人事件を敢行した。私は被害に遭った鹿野巡査長があまりに可哀想で当時後輩と一緒に彼が殺された船岡山古墳の公園に行き手を合わせたことがあった。廣田は自分の処遇に対して組織に強い恨みを抱いており、自らを悪人として晒すことで仕返しをしたのかもの知れない。

116号事件…1987年以降発生した「赤報隊」を名乗るグループによる朝日新聞社襲撃事件。記者2名が襲撃され、うち1名が死亡した。

117号事件…1988年、宮崎勤による東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件で4人の幼女が犠牲となっている。尚事件の犠牲者4人のうち3人は埼玉県居住であり、北関東一帯では未だ捕まっていない少女誘拐殺人事件が多数存在する。(清水潔著「殺人犯はそこにいる〜隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件」に詳しい)

118号事件…1991年に発生した身代金目的誘拐強盗殺人事件で、事件は千葉、福島、岩手にまたがって敢行された。


「警さつちょうの すずき(鈴木警察庁長官のこと) え わしら あんたに わるい おもうてる わしらの せいで かみの毛 えろう うすう なったな まわりの もんも まぶしゅうて かなわんやろ 毛のはえる くすりの かわりに また ヒント おしえたる 森永の かし ぎふ県で こうた おまえらでも さがせば わかるやろ」等と脅迫状を送り、当時森永製品を徹底的にスーパー等から排除していく。キツネ目の男を中心にして全国の名だたるスーパーに青酸ソーダ入りのハイチュウやチョコボールを置いていき、そうすることで百貨店や店側が店舗から森永製品を排除する動きにより売り上げが落ち、株価も下落していくというまさに犯人の思う壺に陥っていった。当時売上げが極端に落ち込んだ森永製菓は、駅前など街頭販売などで工夫し「千円パック」などとして商品を売る作戦を行い、全国の公務員もそれに協力するなどローソクの火を灯すような努力を行なっていた。ちょうど森永のご令嬢が外務大臣安倍晋太郎の秘書官である安倍晋三と交際をしている真っ最中の出来事であった(岩瀬達哉著「キツネ目」参照)。

 裏取引に応じない食品会社には犯人グループは容赦なく挑戦状を送り続けていくが、そのうちの一つが、冒頭に述べていたハウス食品で、114号事件の数々の食品会社の一つとしてターゲットになっていた。「浦上へ まえにテープ おくっとったから わしら ほんもの ゆうこと わかるやろ この手紙 けいさつ え とどけても ええで グリコ 森永 と おなじ めに あわせたる あと 半とし したら 森永 つぶれるで グリコは 6000万 ださんで 6億で はなし ついた」などと他の食品会社と対比して「かい人21面相」名で裏取引を強要しようとした。ハウス食品は、犯人からの指示通り現金1億円を本札で用意し警察とも協力しながらギリギリの攻防で応じた。先ほど「広域」重要事件の話をしたが、警察が広域捜査の重要性を認識したのはこのGM事件の失敗があったからだった。ハウス事件では警察も初めてデジタル無線を駆使して滋賀県を舞台に、これまで数度捕捉に失敗したことを払拭して捲土重来を期して挑んでいた。しかし犯人側も現金受け渡しに要する時間を秒単位で計測しておりうっかりと現れたりすることはなかった。犯人側が指定した場所として「大津SA」がある。そこは知る人ぞ知る外部の街中に通じる階段があり、私達も以前旅行先で帰ってきた時には、そこで観光バスに降ろしてもらい、近くのJR大津駅まで歩き帰宅するという方法を利用していた。当時は犯人の中に元滋賀県警の刑事がいるとは分かっていなかったが、この土地勘と、広域になったがゆえに充分な共有が図れなかったことが、通常の滋賀県警パトカーに不審車両として追跡され辛うじて振り切って逃げてしまうという一大チャンスを取り逃す失敗につながり、犯人にとってはまたしても悪運が救ったのだった。

  当時の京都新聞「号外」より


 滋賀県警の失敗は、県警山本本部長の焼身自殺というセンセーショナルな結果を生んだ。警察庁は連日滋賀県警を責めまくっていたが、今回の安倍元首相の狙撃事件と同じく本当に見直さなければならないのは、警察の体質ではないかと私は思う。やっとのことで犯人から「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」とハウスを許すという終結宣言が出されたのは、1985年8月11日のことだった。浦上社長は大阪にある父の墓前にそのことを報告するために翌日の飛行機を利用したのだった。享年47歳であった。後にボーイングの事故機の事故原因は圧力隔壁の強度に問題があり、それにより垂直尾翼が吹っ飛んだとこととされているが、機上524名のうち生存者はわずかに4名だった。


追記;遡って前年の1984年12月10日、在阪ならずマスコミ各社が一斉にハウス食品本社のある東大阪市御厨栄町に殺到していた。多くは黒塗りのハイヤーでかなりの数の車が本社の周りを囲っていた。滋賀県でハウス食品側が用意した身代金を受け渡す際に犯人を捕捉するとして捜査員が集結していたが、ほんのわずかな間隙により痛くも逃した顛末の直後、この日の夕刻ハウス食品が脅迫されていた事実をマスコミに公表したからだった。私はその時本社前で特命に従事していたのだが、これからハウスも日本も忙しくなるぞぅと一人寒空を見上げながら呟いたものだった。報道結果は上記京都新聞の号外につながる。この日を境に警察は、ハウス食品本社の周囲を二十四時間体制の張付け警戒としたのだったが、それから終結までにはおよそ半年を要したのである。(もう一つ余談であるが、当時もう一つ既に警察は張り付け警戒を余儀なくされていた。山口組が分裂し、同組と一和会が抗争する「山一抗争」がその年の夏に勃発していたためだった。)



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