「ほんとに申し訳ないって言うか、心の中で合唱した」
「どうしたの?」
「今日さ遅帰りやから、最寄りの駅に着くのはもう夜の九時半ごろになってしまう。朝もそうだけどね、だいたい車が急いで出勤しているからさ、間隙を縫っていつもの交差点を渡る分け、それはいつもそうだから」
「それで?」
「もうこれは昔から習い性になっているっていうか、自分の性(さが)みたいなもんで、今日も駅を降りて、踏切を渡って自宅への道に向かう時、一箇所その交差点があって、そこを横切るタイミングを歩いて見計らってたの。すると、どう言うわけか、今日に限って、かなり向こうから、この人渡ると思っていると見えたからなのか、(最近左足を酷使して痛めているって分かったからなのか)速度を落として乗用車が停止したのよ自分の前で。まだ交差点に達してないし、やっとそこに来ても、自分の気持ち的には『どうぞ先に進んで下さい』って手で合図してる。待ってくれたよその人、でもダメなん、こちらが渡らないから、おれがどうぞしてるし、せっかく待ったのに、だから車は仕方なく発進した」
「それで?」
「それを車の後方で見てた二輪が、近づくなり速度を落としてさ、また直前で停止して渡れっていう感じ。仕方ないからお辞儀して渡った。きっと前方でさっき待ってくれてた車の運転手さんもその光景を見てたんじゃないかなぁ」
時々そういう意固地な性格がさ露呈してしまうん。多分仕事をしてる身だから今でも。嬉しい事ばかりではないし、どっちかというと自分の嫌な面ばかりが心の中でどうすることも出来ずに渦巻いているんだと思う。分かってるよ、田坂教授が言うようにpositive に振る舞わないといけないし、運勢的にもダメだと分かってるけど、そんなシーンに出くわすと、いえいえ自分はそんな人間ではないし、そんな扱いされたら困りますっていう気持ちが先行してしまうだよね。ほんとにもう人生でこれ以上ないというような素敵な女性でも自分の前に現れでもしない限り(それは他でもない三十五しかないけど)性格は変えられないような気がするん。だからその人には後々申し訳ない気持ちでいっぱいになるし、手を合わせるしかないの。
もちろん自分が運転している時なら待つし、歩行者や自転車の人を優先して通してやるよ。いいことしたら一日良い気持ちになるものだしね。それを人にも奨励したい。ほとんど交差点を曲がる直近で指示器出す人ばっかだからね。それがどうしてなんだろう。特にあるタイミングで自分にされたらひん曲がった気持ちになってしまうなんて。よっぽど、過去に相当ひどいっていうか悪い自己犠牲的な怨念を背負ってしまったんだろうと思う。おれってそんな人間じゃないですから、そこまでされたら困るのでというような自己否定が起きてしまうんだよ。悲しい記憶とか、人は満たされないことが続くと、そういうことが勝手に身について身体の中まで染み込んでしまうもなのだ思う。
ただ、家に帰って、また「やまとなでしこ」の最終話を見ると、つい涙してしまう自分がいるし、癒されている自分もいる。桜子がお前と被ってるし、ああ何てことを、取り返しのつかないことを、なんてね。どうして素直になれないんだろう。お前の前なら変わるんやろうか?お前の前なら生まれたままの、素直な自分に戻れるんやろうか?
DIYで作ったWベッドと壁紙。こんな広いベッドで今一人寝ている。早く来ないかなぁ…。そう言えば、来年のことやけど、「ボーン」の新作が公開されるみたいやけど、一緒に観に行かない?それまでには松下幸之助が言ったように「素直な心」になっていると思うから。
2024.7.20追記、最近あのドライバーと思う、止まってくれてた。照れて、手を振って挨拶して彼の車の後を通った。
「なぜ私がそのように素直な心の大切さについて、くり返し述べてきているのかといいますと、私は素直な心というものこそ、お互い人間として最も好ましい生き方をもたらすものではないかと思うからです。」(松下幸之助「素直な心になるために」より)
2024.5.20
MC183
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