2023年4月30日日曜日

世界の基軸通貨(経済学 前編)

  1ユーロ=150円、1ポンド(英)=170円、そして1ドル=136円(4月30日現在)。昨日YouTubeで妙佛DEEP  MAXが取り上げていた世界の基軸通貨=ドルからの脱却を世界が模索しているという話があったことから、ここでも取り上げたいと思います。詳細は次の動画で確認をして下さい。

妙佛DEEP MAX「ドル支配からの脱却」

 その昔、僕が小学生の時は1ドル=360円という固定相場の時代だった。そのうち180円となった時に誰かが半ドルなんて例えたことがあった。この頃世界は金本位制と呼ばれていた。

 ブレトンウッズ体制とは、戦後の国際通貨制度のことで、米ドルを資本主義国家の基軸通貨として、その根底に金1オンス=35ドルと定めたもので、金(為替)本位制は、各国通貨がドルに対して固定したものなので、日本も1ドル=360円という固定相場を行っていた分けです(1971年のニクソン・ショックまで)。この1971年12月に何があったかというと、ワシントンのスミソニアン博物館(行ったことがあるけど、あまりに広大な博物館で飛行機が展示してあったり度肝抜かれてしまう)

に10カ国の蔵相が集まったのです。この時の会合で、日本も1ドル=360円から308円に切り上げられ(相対的にドルの値打ちが下がった)、各国も順次2年後までにこれまでの固定相場を変動制へと移行していくことになったのだ。そして1番最初に書いた対ドル比較を円で例えれば、1人民元=約20円で、ロシアの1ルーブルは2円弱でしかない。


 元々貨幣は世界中で商慣習の必要から生まれ、日本でも奈良時代には鋳造技術を大陸から取り入れてもいる。8〜10世紀には宋の貨幣を輸入したり、或いは禁止したりしつつ鎌倉幕府も貨幣経済を認め、金座・銀座があった江戸幕府に継承され、商業が盛んに行われると手形が発行されるようにもなった。金という鉱物は、銅などとは違いお金に変えたら価値がある物だったんですね。

 歴史的には1816年イギリスが1ポンドの貨幣(金貨)を鋳造したのだけれど、この金貨と同額の紙幣が発行され、また一定量の「金」と交換できるということになった。これが金本位制の始まりだったのだ。つまり植民地を世界に拡大し貿易国としてのイギリスが、金に裏打ちされた英国ポンドという貨幣で決済したことが世界でこの制度(金に基づいた貨幣経済)が構築された最初だったのです。日本の金本位制は明治に入ってからだった。何とかの埋蔵金なんて言い方が存在するけど、実はまだまだ世の中には認知されていない不思議なことが存在するらしいんだけどその話は後に譲ることに。

※「金属地金の裏づけのない、もしくは裏づけが不十分である通貨を経済に導入することによる経済学的な帰結を考察することは、最も重要な研究課題の1つである。」(「教養としての経済学」より、齊藤 誠編)

 日本はアメリカに対してよく貿易黒字といって攻撃の的になっていた時代があったけど、ここでちょっと難しい話をすると、そういう時には貿易赤字のアメリカは貿易黒字の日本に対し債務分として金(Gold) を輸送する必要があったんです。もし日本が黒字に転じたことで金の保有が増大するのでインフレという現象が起きるとすれば、インフレを抑制しなくちゃいけないから、「不胎化介入」ということが行われるのです。通貨の量を為替介入することで輸出品の価格を維持し競争力を強化しようとするのです。現代は金本位制ではなくても「不胎化政策」は日本の政府も行っており、各国でも行われているんです。結局米ドルが世界の基軸という足枷が招いたことなのかも知れない。まさに金利引き上げの末アメリカの銀行が次々潰れている昨今、ヨーロッパでもクレディ・スイスが破産し「AT1債」が紙クズになってしまったなんて話が拡散されており、世界のマネーから目を離すことができない時代だというのも事実のようです。


 出典;横山和輝名古屋市立大学大学院経済学研究科准教授著「日本史で学ぶ経済学」
東洋経済新報社刊


2023年4月11日火曜日

そして僕は途方に暮れる

 1980年代ヒットソング ベスト4

大沢誉志幸「そして僕は途方に暮れる」 (1984年9月リリース)

この歌には、当時の僕の気持ちがそのまま投影されているような気がする…何か悔しいような、どこかもどかしいような…

大瀧詠一「キミは天然色」(1981年3月リリース)

南佳孝「スローなブギにしてくれ」(1981年1月リリース)

岡村孝子「夢をあきらめないで」(1987年2月リリース)→この曲は、お前が今でもずっと夢をあきらめずにお前らしく前を向いて生きていることを思ってここにあげるな

 1980年代に何があったか。大学生の自分は免許を取って、柔道を始め、一人旅をしていた。その頃は、ちょうど歌謡界には松田聖子という歌姫が登場する。それはラジオの番組がきっかけで、呉田軽穂という人が楽曲を書くことで(主に作詞は松本隆で編曲は松任谷正隆が担当)彼女が本格デビューを果たすことになる。作詞も手がけるその人はのちにユーミンとして一世風靡する。僕は相変わらず大学生活でバイトしながら週刊誌のグラビアを見たりしながら将来を夢見ていた。松任谷正隆という人もその時期にそのようなことをしていたようだ。僕がシナリオを描いたり童話を描いたりしていたのもこの時期だった。そして週刊誌では80年代の音楽とは何かを問う論文を募集していた。どうせ通らないけど、当時映画音楽を作曲もしていたギタリストの中林淳正という人の音楽が気に入って、その曲を取り上げて評した。1979年の11月ごろだった。結果は写真のごとく千人以上の応募で2名だけが選ばれた。ただ行けるはずの西海岸が、夢と消え大人になっていくのだけれど、ただあの時の少しの自信が今の自分を形成しているようにも思えるのだ。悔しい気持ちがバネとなって。

※この行けなかった理由を今更ここに挙げるつもりはないけれど、もしかして、何か渡米することで災いが降りかかったのかも知れないと考えることもできる。そして渡米できなかった事実は、後に2005年のN.Y.行きとなって結実する。誰かからThis is New York という童話もらって納得する自分もいた。このように僕の人生は、ずっと先のどこかでやっと実を結ぶ、と言うようなことがあったりする。






 話がちょっと飛躍するかも知れないけれど、宇多田ヒカルが登場して(1980年代に生まれ1998年Automaticで衝撃デビュー)、きっとこれまで日本のポップスを牽引してきた小室哲哉は衝撃を受けたのだと思う。それがああいう形で一時姿を消すことになってしまった。安室奈美恵が最後に歌う歌 Finery を作るまでは。昨夜YouTubeで映画「世界の終わりから」の完成舞台挨拶で主演の二人と監督が舞台で気持ちを伝えているのを見た。特に印象的だったのは紀里谷和明監督の話だった。ちょうど2002年に彼は宇多田ヒカルと結婚する。そして5年後に離婚。彼の心の中で2004年から今までの人生を振り返ってとても辛かったことを舞台で打ち明けていた。その気持ちはちょうど自分の年月とぴったり重なっている。だから妙に彼の一言一言に頷いている自分がいた。2004年には肉親(兄)を亡くしてもいる。そしてやっぱりその後の離婚がいちばん彼の人生に影響したと思う。なぜなら手を伸ばせばそこに最愛の人がいたのだから。そしてなぜその人を手放さなくてはいけなかったのかも一人苛まれていたことだろう。僕にとっては三十五という人が離れて行ったのだから...。 明日は彼のその最後と称する映画を見にいくことになっている。

 そして昨日(4月12日)夜勤明けの朦朧とした頭もそこそこに、梅田のイーマの以前ブルク7と言ってた映画館(今はT・ジョイ梅田というダサい名前)で紀里谷監督の世界の終わりから、を観た。

 最初は確かに黒沢映画を彷彿とさせる騎馬シーンがあったり、いじめを許さないヒロインを守る女性刑事も登場する。タイムカプセルやカセットテープといったアイテムやタイムマシーンといった構想、未来のシーンではUFOとかも出てくるけど、本筋はと言えば、今の世界はもう誰も救いようのないところまで来ているんじゃないのか、というのがテーマなのだろう。連想するのはやはり、紀里谷氏が居住していたニューヨークを舞台にしたマット・デーモン主演の「アジャストメント」だ。「本」の中に人の未来を決める運命が刻印しているみたいな風なところは非常によく似ている。影響受けているのかも知れない。ヒロインも最初は抵抗していたけれど、次第に「運命の力」に押し流されるように従っていく。それは「夢」の中で自分の分身であるはずの幼い少女と出会うことで不思議な力を得て、自分の「運命」を悟っていくのだった。Ajustmentという映画は対照的に主人公が「運命」だとされていくのを「いや違う自分の人生は自分で切り開いていくんだ」という熱い胸に秘めたものを感じられ感動したから何度も見たのだった。そして

 ウクライナ侵攻というロシアの一方的な侵略戦争というのであれば、確かにそれはかつてはアメリカの専売特許だった。ベトナム戦争は英仏から米に主力を変えた戦争(ベトナムから言えば民族紛争)だったし、イライラ戦争(イランvsイラク)中東戦争(イスラエルvsパレスティナをはじめとしたアラブ)、アメリカのクエート侵攻と続く湾岸戦争。9.11後のアフガニスタン侵攻とイラクのフセイン打倒。そして今でもイスラエルとパレスティナは毎日のようにミサイル合戦を繰り広げている。(また中国が仲介を申し入れているが…)

    かつて広瀬隆氏は「地球のゆくえ」という本で、毎年どこかで戦争が起きているということを語っていた。今もその事実は変わらない。だから紀里谷監督の言いたいことは、人類はもう行き詰まっているのだ、もう後には引けないと解釈できなくもない。現にロシアによるウクライナ東部や南部への攻撃と侵略は収まりそうもない。だからプーチンが死ぬまでどうしても侵略をしないでいることが出来なかったという事実は、逆に言えばそれを傍観者として我々が手をこまねいてそれを許しているのと同じことだ。お前が、「世界中(の人)に幸せを」もたらしたいと思っていたのも理解できるし、実現が容易じゃないからその言葉は今でもそれが色褪せてないのだと思う。映画の最後で問いかけていた。世界の人は滅びる前にどうしたいのかと。作者は世界を救う道として愛を説く。今朝政府が北鮮がミサイルを発射したとJアラートを北海道エリアに発令した。結果は誤報ではないが「正確」な情報を確認できずに終わった。その時頭の中をよぎったのは、ちょうど昨日映画の最後のシーンでミサイルのようなものが尾を引いて次々に投下されているというシーンだった。

 もしかしてキムという気狂いの指導者にミサイルの頭に核弾頭というおもちゃを乗せるように仕向けたのも、実はアメリカなのかも知れないのだ。

2023年4月5日水曜日

推定無罪とは

    被疑者・被告人は、刑事裁判において有罪が確定するまでは、「罪を犯していない」人として扱わなければならないという原則を「推定無罪」と呼ぶ。

 2019年6月16日午前5時38分。吹田警察署千里山交番前で警察官を刃物で刺して拳銃を奪った強盗殺人未遂の罪で、当時33歳の男について一審の大阪地裁は懲役12年の刑を言い渡したが、今年3月20日大阪高裁はそれを破棄して、36歳となった被告人に無罪を言い渡した。事件当時被疑者の父親が関西テレビの重役であったことから逮捕の翌日被害者に対して謝罪のコメントを出している。高裁の判決理由は、被告人は「重い統合失調症で犯行当時心身喪失状態にあった」として刑事責任を問えないと判断したのだとされた。検察は上告を断念している。

 犯人は、まず「空き巣に入られました」と虚偽の通報を行い、指令により同交番の2名の警察官が現場に赴き、26歳の古瀬巡査は少し遅れて現場に向かおうとしていたが、手薄になった交番を狙って交番前でバイクに跨って出発しようとした巡査に犯人は「おい」と呼び止め、即座に所携のナイフで腕、胸など7カ所を刺して転倒させ、それでも所期の目的である「拳銃を奪う」ために、倒れた巡査を刺し続けて拳銃を奪い逃走した。非常に計画的な犯行であった。当初大阪府警は事の重大さ(警察官が殺害されようとしたことと既に拳銃を奪われていること)に鑑み、これまで発令されたことがない府下全域において「特別配備」(全体配備と呼ぶ)を敷き、警察官を全員体制で動員し犯人の補足に努めている。その後古瀬巡査は、意識不明の重体で病院に運ばれているが一命は取り留めた。

 犯人はといえば、前日には沖縄をゴルフをするために旅行し出会い系で知り合った女性と有償の性的交友を行なっている。もし被害者の巡査が、肺の一部を摘出するほどの手術の過程において死亡してしまったならば、どうなっていただろうか?それでも裁判は被告人の生命を一番に守ることを重視しただろうか?巡査は数分の時間で運悪く被害に遭ってしまったが、被告人に対しては山上容疑者と同じく精神鑑定のため鑑定留置(3ヶ月)の措置が取られている。

 似たような事件は次々に起きている。遡ること1976年10月18日午前2時20分頃警視庁管内の東村山警察署の八坂派出所で事件は起きた。少し酔った風情の男が派出所前にいたので当直勤務中の55歳の巡査部長の男性が声をかけたが、男の目的は、警察官を殺して警察手帳と拳銃を奪って強盗を行うことであり、職質の際に所持品検査をされることを嫌がり、咄嗟に「今不審なアベックを見たんです」と虚偽申告をし誘き出しを行なった。現場に着くと、すでに用意していた金属製の棒で殴打し格闘の末警官の胸を突き刺し、「拳銃と警察手帳」を強取しようとしたが、警官の悲鳴に近隣住民が気付き男を制止し、犯人は犯行を断念し逮捕されている。警察官は出血多量で即死であった。この事件の最高裁判決は死刑であり、「被疑者の性格に著しい精神病質等があったとしても、精神病には至らず判断能力がある」としている。 

 これまで警察官が襲われて拳銃を奪われた事件は数多くある。1984年9月4日の午後0時50分頃十二坊派出所から近い京都の船岡山公園で当時派出所に勤務していた鹿野巡査長が「誘き出し」に遭い(本来は二名勤務であったところ1名は昇任試験で不在であった)、かつて同僚であった廣田元巡査部長によりナイフで滅多刺しの上殺害され、奪われた拳銃で背中を一発打たれて死亡。廣田はその銃で大阪の京橋のサラ金業者に押し入り、応対に出た社員の「冗談でしょう」の言葉も虚しく即死させている。京都の事件はあまりに悲惨で可哀想な事件だったので、私が若い頃鹿野巡査長が殺された船岡山公園に赴き花を手向けたことを覚えている。

 それから東村山署の事件の16年後の1992年2月14日午前3時20分頃同じく東村山警察署の旭が丘派出所で勤務中の巡査長(当時42歳)の男性が襲われて首や胸等を刺されて殺害されているが、2名勤務の1名は通報事案に出ており、その際に狙われ、拳銃が奪われているが、道案内をしていること等から計画的犯行が伺われた(2007年公訴時効により未解決)。

   
 毎日新聞本社へりから千里山交番を臨む(大西達也氏撮影)右後に阪急千里山駅がある

 2018年6月26日深夜の2時10分頃富山県(中央署奥田交番)でも起こっている。46歳の警部補が30ヶ所を刺されて殺害され、奪われた拳銃でその後小学校を警戒中の警備員が犯人に射殺されている。

 殺人は裁判員制度の対象事件である。他に強盗致傷、傷害致死、危険運転致死、現住建造物等放火、身代金目的誘拐、保護責任者遺棄致死、覚せい剤取締法違反の8つが対象事件である。裁判員制度はアメリカ陪審員制度に似ている。今の日本の裁判員制度では有罪の判断が、裁判官と合わせて過半数必要とされる。ただ一審で有罪とされたものが、吹田事件のように二審で無罪となることもあるのだ。あまりにも計画的な犯行を無罪とさせたものは、常人が窺い知れないいくつかの見えない要因があるはずである。

 「十二人の怒れる男」は、1957年(白黒映画)社会派のシドニー・ルメット監督の映画で、主演はヘンリー・フォンダ。うだるような暑い夏で、ほとんど狭い会議室の中で個性派の俳優が熱弁を振るうというのが見せ場だったが、陪審員に選ばれた男達が殺人犯とされた黒人の若者について議論する。初めに決を取り11人が有罪としたが、「臍曲がり」の男(主演)だけが、それでも議論を尽くそうとみんなに言う。「おいおい、ナイターが見れなくなるぞぉ、なんでこんな馬鹿げた事時間かけてやらなきゃなんないんだよ。こいつバカじゃないのか。有罪に決まってるじゃないか!あんな奴」ところが、一人一人、有罪としていた者が、若者の現場での行動を再現していくにつれて無罪に変わっていくのだった。最初のタイトルの「推定無罪」については、この映画を見れば理解できる。ただいつの世でもそうだけれど、まず被害者ありきではないかと思う。被疑者の人権ばかりが叫ばれるが、被害者の人権が先ではないかと弁護士の先生に言いたくなる。その上で、取り調べの可視化とか、有罪とされるべき証拠の存在を重視されるべき(事実の認定は、証拠による)であろう。

 先頃最高裁が、袴田事件について再審開始の決定を下している。公権力の濫用は許されないし、恣意的な逮捕権の運用は控えるべきである。Winny事件のところでも取り上げているが、かつては警察庁長官襲撃(殺人未遂)事件でも、警視庁の逮捕権の乱用と見られる事例があった。最初からオーム事件に結びつけてしまい同じ人間を再逮捕したのだが、2回とも東京地検はそれでも被疑者を不起訴にしている。公判に堪え得ないからであった。捜査を尽くせば別に犯人はいたのだが、警察は真実を見失い時効を迎えてしまった。

4月5日補追;付け加えて言えば、日本は英米と同じくcommon lawにおける「判例主義」に基づいている。戦前まではcivil lawでドイツの大陸法をモデルとしていた。現憲法の下に過去の判例が最優先になり個々の事件が裁かれるのである。よって前例がない事件が起きると、それが判例となり、また前審を覆すような判断がなされれば、新たな判例となるのである。


参考文献;鹿島圭介「警察庁長官を撃った男」

     NHKスペシャル「未解決事件 File.7」

     原雄一著「宿命 國松警察庁長官を狙撃した男・捜査完結」








新中東戦争のゆくえ