「怪物」は誰の心の中にも住んでいる。夫を亡くして自営でクリーニング店を営む麦野早織(安藤サクラ)は小学生の息子と一緒に住んでいるが、毎日が格闘である。「お父さんは生まれ変わったら何になるかな?」などと母親に質問する。仲良くもあるが、捉え所がなく母親も困ってしまうことも多い。子供には子供の領域もしくは領分というものが存在する。それを大人は判ってくれない。いつの時代でも。母親は学校の担任教師が息子に体罰を与えていると勝手に思い込む。一人学校に乗り込むが、相手にされない。みんなが手を組んでいる。担任の保利(ほり)先生(永山瑛太)は、口止めされたために余計に誤解が誤解を生み、マスコミ沙汰になるにつれて担任も外される。息子の麦野湊(みなと)は父を失ったという疎外感もあるが、教室の中でも馴染めないでいる。だから本当のことを言わなかったりもするし、自分にもまだ自信が持てないから友達にも辛くあたったりもする。星川依里がみんなからイジメにあっても助けて上げられない不甲斐なさを味わうことにもなる。そのうち何で彼はこんなに教室で爪弾きになっても強いんだろうと思ってしまう。ネットの解説には複数の人がLG BT Qなどをテーマの一つに扱っているが、もっと自然に、素直にこの作品を見ればいいと思う。家庭にも学校にも溶け込めないという二人が秘密の基地に集う。そこで「怪物だ〜れだ」とカードで遊ぶシーンがある。何気ないシーンであるが教室では表現できない二人ならではの得意な表現方法である。嵐になって母と保利先生は必死になって子供を探すが、本人達は意に介さずに自分の領域を形作ることに精一杯だ。湊が友達に教わるヒュンヒュンという音がする手作りの「楽器」や校長から教わるトロンボーンという「楽器」もアイテムの一つである。ここでは韓国映画じゃないから、最後まで「怪物」は登場しない。それは一人一人の心に存在するものだから。そして湊は依里が本当の友達であることに次第に気付いていく。共に自信を持って未来を切り拓いていけるんじゃないかということにも気づく。それは彼の亡きお父さんがそう教えているのかも知れないし、残されたお母さんの愛情の所以なのかも知れない。いつかは誰もがわかってくれるだろう。そう思わせる何かがこのドラマにはある。火災があり、それは放火かも知れないとの疑念も生むし、教師である校長だって犯罪者というより人間としての存在意義が問われるが、映画では犯人を探す事はしていない。ただ火災のシーンが遡って表現されているが、カンカンという消防車の音は現場を経験したものなら分かるがいつも必ず生の音である。緊急執行のサイレンの音を消して表現することでreplayがうまく伝わったと思う。
昔子供が小学生の時によく黒姫の童話館で童話を読み(私のお気に入りは「泣いた赤鬼」)戸隠にキャンプしていた夏休み、いつも研究課題に何をしようかと考えていた。野尻湖にはナウマンゾウ博物館があり、それを見せて、近くで「関東ローム層」(岩宿遺跡に似た)を土台にした遺跡群が発見されて見学会がありそれに参加したことがある。子供と一緒に帰ってまとめたものが秋に教育委員会の賞を取ったと記憶している。息子が大人になって、二人でカヤの平高原キャンプ場に行ったら、夏は常駐している学者の方がおられ5千円で案内を引受けてくれるオプションに参加した。白樺と湿原と日光キスゲ、そこに生息する虫たち。団体で散策する人達も何故かしばらく先生の話に聞き入る。とにかく先生の博識のある説明が圧巻で写真にまとめるとこりゃ「夏休みの研究課題」になるなと苦笑するくらいの代物だった。その翌年、翌々年には妙高とキャンプしたり、尾瀬の湿原を福島まで歩いたり、たくさん思い出を作ったが、その息子も今年離れて行った。
他人への無理解やそもそも人を愛することが出来ない心が「怪物」を生んでいくのである。この映画では、衣装デザインには黒澤和子が当たっている。NHK大河ドラマを初め日本の衣装デザインの第一人者である。黒澤明の孫二人が彼女に添っている。そして坂本龍一の音楽が優しく奏でている。彼の遺作となった。脚本は、本年カンヌ映画祭のコンペティション部門で脚本賞(脚本;坂元裕二)を受賞している。この夏休みにも多くの子供の目に触れたら良いと思って帰ってきた。難波は人と暑さで凄い土曜日になっていた。デパ地下に入って涼しくなったけど混雑は同じだった。
それからさ忘れてたわけではないけど、誕生日おめでとう。年は気にしなくていいからね。