昔観月ありさ主演(同名の主題歌はドリカム)で映画になったのがそれ。それも私の生まれ故郷を舞台にしていた懐かしい映画だ。今日7月7日、ちょっと身の毛のよ立つ映画「ブラック・フォン」を観に梅田のステーション・シネマ(Lucua11F)に向かった。平日なのに、第七波に突入したとのニュースもあるけど結構な人出に驚く。始まる前に定番のポップコーンとホットコーヒーを用意する。彼女がいない分だけ楽だと負け惜しみを心の中で言ってみる。でも始まるともう、それどころではなく釘付けになってしまう。凄い音響効果もあってか何度か声を上げる程びっくりする場面が少なからずあったし、見終わってみるとただ良かったと思った。最後らへんでは泣けたし(どこかは言わないけど)。終わってから外に出てトイレで若い二人連れが会話していた。「ホラーっていうよりサスペンスって感じかな?」他にも色々会話していたけど割愛。人の入りは、朝イチで私を入れて8人だった。そのうちの最後列にいた二人。露天風呂なら殆ど独り占め的な程の空き。
この映画を評するのは早いけど、ただどちらかと言うと、映画に貫かれているのは「子供目線」であるということ。大人の視線より低い。実際にこういった映画の中で起きたことは(舞台は1970年代)アメリカなら十分有り得ただろうし、監督は要所に暴力を入れていることから、いわゆる学校における「いじめ」や「家庭内暴力(虐待)」を一つの重要な要素としていることも推察できる。この映画が単なるホラー映画に堕っしてしまわないのは、子供の心をちゃんと描いていたからだと思う。
※補追;2023.7に入って観た映画「怪物」にそのへんは共通している。
最近でも学校での銃乱射事件が後を絶たないアメリカでは(翌日日本でも奈良で安倍元総理が撃たれる事件が早速起きた)、子供たちが十分守られていないのは事実である。いくら大統領が共和党から民主党に変わったとしても、最近の最高裁判例(アメリカは判例主義)がいみじくも露呈したように、銃規制に対してはそれほど積極的でないことが明らになった。今だに安心して通学出来ない(授業を受けていられない)状況は変わらない。この映画は、子供と親、子供同士の付き合い方、兄妹の愛情、既にこの世にいない病んでいた母親の残像、夢(或いは予知夢)という現象、特に家庭と学校、近隣のつながり等(誰が住んでいるかさえ希薄な隣人との生活)を思い起こさせ、考えさせられる映画だった。昔ルネ・クレマン監督の「禁じられた遊び」というフランス映画があったが、子供が十字架とか遊びの道具にするのは禁じられた遊びなのだが、戦争という現実の中では大人は止めさせる手立てがないことを意味している。つまり大人ではない子供の世界があって、この映画でも大人社会の中に切り込んでいく力を持っているのだと思う。そしてファーストシーンを思い起こして欲しい。ピッチャーとバッターの少年の間に人知れず芽生えた友情。それがブラック・フォンというアイテムを介して主人公の少年を救っていくことになるのだ、何度失敗しても生きる希望を失っちゃダメなんだよ、そう友人は話しかけてくる。彼は生き延びることは出来たのだろうか?
七夕の日にルクア大阪そして、昨日の「ハゲタカ」の続きだけれど、次回に譲ります。
あまりに綺麗なので、twitterの投稿の中から北海道で撮影したというKAGAYAさんの写真を勝手に使わさせて頂きました。m(_ _)m 夏の大三角〜真上が、こと座のベガ(織姫)で、右下がわし座のアルタイル(彦星)です。
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